会長の思い出48
2014-08-01
1989年当時はバブルの真っただ中でしたから、運送会社の運転手どころか、粉屋の方の営業も人手不足になっていて、
新聞の折り込み広告や職安などあらゆる手を使って人を掻き集めるという感じでした。
その結果、大進の営業マンが4人いましたが、
平均年齢60歳で、上は72歳、66歳でした。
社長(父)が59歳でしたから、社長よりずっと年配の人達になっていました。
その頃は小さい町のパン屋さんも多く、
得意先も400件程ありましたので、当日オーダーも結構ありました。
配達なんかも手が回らず、その年配の人にも間に合わせで20袋、30袋運んでもらうと、
帰ってくるとぎっくり腰になっていたり、足を痛めていたりで
「わし、もうあきまへんわ。」と言う始末なので、
下手に配達もさせられず、私も回りきれない時は社長にお願いしたりもしていました。
そういう時の社長は、何も言わず、もちろん怒る事もなく手伝ってくれました。
もう何年も粉を担いでいなかったですが、やはり強いものでした。
最後に担いでくれたのが1番多かったのでよく覚えているのですが、
奈良に粉を300袋配達する仕事でした。
300袋全部担ぎ下ろす仕事で大丈夫かなと思ったのですが、
平気で帰ってきて「もう60歳なるのにまだ元気やろ。」と言って上機嫌だったのを今も思い出します。
大体汗を流してしゃかりきになって働く事が好きでしたから、
こういう時が1番燃えていられるという感じでオーラがありました。
それから20年以上経って、私も社長の年になってきたのですが、
20年以上粉を担ぐ仕事をしていない私がはたしてやれるのかと思うと、
社長はやはり強かったなあと思うのでした。
もうひとつ、この年の事で思い出すのは正月の初参りの事です。
それまで、社長は若い時から由あって宝塚の清州荒神に
大晦日の紅白歌合戦が終わってから参るという習慣がありました。
私も幼い頃からついて行っていたのですが、
遠いですし道は混みますので、帰ってくるといつも朝になっていました。
私は車の中で寝ているだけなのでいいですが、着いてからもかなり歩きますし、
受験の時に真剣に参ったくらいで後は興味がなく、正直行くのが嫌でした。
そうして1989年の正月は、前の年の12月に韓国からの輸入を始めていましたので、
私は海の神様、そして貿易の神様の住吉大社に今年から参りたいと言ったのです。
すると当然長年の習慣を崩すのは嫌そうだったのですが、
理由がありましたので認めてくれました。
しかし、それから長年、
「お前が荒神さんついて来んようなったから調子がおかしくなったわ。」
と言われ続けました。
すると、いつの頃からか一緒に住吉さんに参るようになり、
逆に神社の方と仲良くしてもらって
広報の一員になって、神社の施設に泊まらせてもらったり、
普通の人が入れないような所にも自由に出入りしたりするようになったのです。
このように自分と違う事をされると逆にとことん入り込んできて
自分の方が上だと言わんばかりの事をするのでした。
これは“やるんだったらとことんやらんといかん”と言う信念を示すためと
自分が疎外されたように感じると絶対我慢できないというような所がありました。
スポンサーサイト