会長の思い出29
2013-01-01
明けましておめでとう御座います。今年も毎月初めにブログを配信して参りますので、
どうぞよろしくお願い申し上げます。
少しでも多くの方に大進に興味を持っていただけるような
お話が出来れば良いかと考えております。
頑張っていきたいと思いますので、暖かくお見守り下さいませ。
粉屋の商売が嫌になって、脱粉(だつこな)という事で、
他の商売に気持ちが行っていましたから、
大進がダメになっただろうという事は、ありありしていました。
社長と、得意先へ行ったり、お付き合いさせていただいたり、
一緒に回る事もよく有ったのですが、粉の商売と言いますか、
粉の話をしているのを聞いた事がありませんでした。
よく言っていましたのが、
「おれは商売は嫌いや。商売はせん。
俺は会社作ったり、おもろい商売作ったり、
何処にも無いようなすごい商品を作るのが仕事や。
商売はお前らがやったらええんや!」という事でした。
もともと松下電器で喧嘩して辞めて以来、55歳くらいまでは
「松下幸之介を抜いて見返したるんや。」とよく言っていましたから、
粉屋はたたき台でいろいろやろうとしたのでしょうが、
粉屋の商売は会長には合っていなかったと思います。
運送会社の大急の方も、儲かってはいましたが、
「俺は運送屋をやるために商売を始めたんやない。」とよく言ってました。
レストラン&ショップのバンブーは、いろんな事を好きに出来るので、
面白くって、これを伸ばそうとしたのですが、
最初の15年はいろいろ当たって上手くいっていましたが、
だんだんと行き詰るようになって、すべてが中途半端になって、
全体的に業績が悪化したのだと思われます。
そこで、もう一度原点に戻る意味もあって、
私に大進の仕事をさせようとしたのでしょう。
悪い所から立て直させることが、私を鍛え、
いい経験にもなると思ったような気もします。
とにかく、大進は社長がお客様や仕入れ先の付き合いをたまにやったり、
会社へ来たら怒鳴り散らしているだけで、
放ったらかし状態でしたので、すごい状況でした。
そもそも、その当時よく言われていたのが、
「粉屋の営業は使い物にならん。」という事でしたが、そのものズバリでした。
ライトバンやワゴンで小口の配達をしながら、集金や御用聞きをするくらいで、
自分から売り込んだり、提案したりはあまりしませんでした。
大進は営業マン5名と、配達専門のトラックドライバー1名、
事務員が2名、そして社長と私の10名でした。
昔は、各社、各事業とも組織図があり、責任者がいたのですが、
社長のように個人のバイタリティ、パワーがあまりにもすご過ぎると、
そういう組織というものは、なかなか成り立たなかったのでしょう。
いつの頃からか、組織図も無くなってしまい、「社長が、全社員百二十人を、
また、社員数が何百人になろうとも、一人ひとり社長が指示して使わなあかん。
そうせんと厳しく命がけの仕事はでけへん。」と言うようになっていました。
何かがあってそうなったのでしょうが、私にも同じようにする事を求めました。
社長はすごい人で尊敬していますし、母の遺言もありましたから、
同じようにしようと努力してきたのですが、「何か違う」とは感じていましたし、
自分にはそういうやり方は無理だと感じるようになっていました。
とにかく、社長が言うように売り上げを伸ばすために
私自身が走るしかないと考えました。
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