会長の思い出5
2010-11-01
昭和30年代前半に心斎橋に店があった頃は40坪の店で、1階が小麦粉の倉庫、2階が事務所と居間でしたから、荷作業は前の路上でした。
周りに公園や広場が無かったので、私の遊び場は倉庫か店の前の路上、
そして近くの南警察署の留置所、大丸の心斎橋本店などでした。
そんな所でしたから、南警察から駐車違反でしょっちゅう注意され、
父も近くですから警察とも仲が良かったようですが、
遂に「言う事聞かなかったら、ブタ箱に放り込んだろか!」と言われ、
「放り込めるもんなら放り込んでみい、誰にも迷惑賭けとらへんわ!」
と、応じてしまったので本当に放り込まれてしまったようです。
現在の管理社会に生きる人から見れば、なんてヒドイ人だろうと
思われるかもしれませんが、戦後を行きぬいた人は結構この様な事はあった様です。
しかし、この事に参ったのと、大阪南の繁華街に隣接していて、
毎日夕方になると遊びに行こうと誘ってくるお客様が絶えなかったので、
1km程離れた西区の堀江という所へ引っ越してきました。
新しいところは100坪ぐらい、建物の1階は駐車場になっていました。
ここで荷捌きができましたので、駐禁の問題もなくなって、
公園が目の前にあったので私の遊び場もできたのでした。
私も7歳になるまでここにおりましたのでよく覚えております。
今でこそ堀江はお洒落な街になっていますが、その当時は材木と家具の町で、
材木屋さんが軒を並べ製材をしていたので埃っぽい感じでした。
配達の人も増え、3階に寮もありました。
社員食堂も出来て、そこでは食後に皆が体を鍛えられるように
バーベルやダンベル、エキスパンダー、腹筋台などの器具があり、いつもトレーニングをしていました。
父は1度に5袋の小麦粉(当時は1袋辺り22kg)をかついでいました。
社員さんも4~5袋はかついだようです。
小麦粉は三輪トラックに積んで運んでいました。
エンジンは車の前方に棒を突っ込んで回してかけるのですが、
これがなかなかかかりにくい上に、かかる時にバタバタとうなるので
このトラックの事をバタコと呼んでいました。
配達の途中に走らなくなったり、車が倒れたり(三輪車ですから荷物を積みすぎるとよく倒れたのです。)
すると、父はよく飛んでいっていました。
そして日本製粉の大阪工場に配達トラックがよく出入りするようになった頃、
大進の荷物だけでなく他の配達も助けるようになり、これが運送会社を作る事に繋がってゆきます。
他の製粉会社の荷物を運ぶようになったので、
トラックも大きくなって4輪車になり、台数も増えたので大急という運送会社を設立。
昭和39年に現在の西淀川区に引越しをしたのです。
400坪(現在は530坪)の広さで、寮も大きくなりました。
ドライブインレストランを併設したのですが、これから大変な状況にもなっていくのです。
これまで小麦粉の販売と配達をやってきて、大変ながらも順調に伸びてきたのですが、
多角化を図るようになってからいろいろな問題も生まれたようでした。
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