会長の思い出38
2013-10-01
1985年6月25日、私が結婚して最初に妻に指示したのが、ショップの支払いで延滞している仕入先に、その日出た給料の大半を支払う事でした。
前にも書きましたように、当時、ショップの売上は半減し、
支払いは私が任されていましたので(というか、ショップではまだ私が最高責任者でした。)
資金繰りは火の車で、支払いが滞っていました。
ですから、数か月前から、私の持っている資金を全部支払いに当ててしまっていました。
この頃は大部分が大進の仕事になっていましたが、
夜と日曜祝日は、ショップの販売を必死に仕事をしていました。
妻も同じようにやってくれました。
妻は、普段は大進の事務の仕事で、夜と日曜祝日は店に立ってくれました。
しかし、これでは生活していけませんので、社長に進言したのです。
「大進の方も大変なんだし、もっと伸ばしていきたいので、
ショップの方は外してくれませんか。私の給料と、人を一人減らせば
なんとかやっていけるし、ショップの販売もできるだけするから。」と、
すると社長は「よっしゃ、そうしよう。ショップは俺と森川とで見てやるから。」と、
あっさり承諾してくれたのでした。
店員は、昔から勤務している年配の男性と女性一人ずつになり、昼間はそれでいけました。
夜と休みの日はレストランから流れてくるお客様も多く、
少し忙しくなるので私と妻が店に出ました。
仕入は、社長とレストランの森川支配人がやってくれ、在庫も抑えるようになりました。
すると、なんとか資金繰りがまわるようになったのです。
それから10年間はそんな感じで、
ショップは儲からなくてもなんとか営業していったのです。
そして私は、ショップのギフトとゴルフの商売は私が始めたので、
それなりの思い入れはありましたが、大進の商売に専念していくようになったのです。
その当時、やはり特筆すべきことは、社長が妻を鍛えるために張り切った事でしょう。
後年「最初の1年間、毎日息子の嫁を泣かしてやった。」
と、嬉しそうに人に言っていましたが、
妻に聞くと「2年やわ!」と、申しておりました。
仕事に追われていたからか、私が鈍感だからか、
そんな事が日常茶飯事だからかはわかりませんが、
私自身はあまり気にしていなかったのですが、覚えているのは
ある日、社長が「お前は嫁にチャラチャラさせとくな!
毎日着るもん変えとるやないか。気になれへんのんか!」と言うのです。
「服くらい毎日変えてもいいじゃないですか。普通でしょ!」と申しますと、
「毎日お色直しして、誰に見せるつもりや。気になれへんお前もおかしいで!」
呆れて話をする気もなくなったのですが、妻に尋ねてみると確かに言われたようで、
「お母さんから、社長の息子さんのお嫁さんになるんやから、
身だしなみはちゃんとしなさいと言われてたから。」と言うものでした。
私は毎日社長からようこれだけの事を言えるなというような事を言われていましたから、
いつもの調子やくらいにしか思わなかったのですが、
妻は辛かっただろうと思います。
しかし、父は(ある時は父、ある時は社長でややこしいですが。)
信念を持ってこんなやり方をするので、何を言ってもやめる事はありません。
父がやめる事があるとすれば、私が家を、会社を出る時だけでしょう。
今風な考え方から言いますと、むちゃくちゃと言えるような事はいっぱいありました。
妻が愚痴も言わず耐えてくれた事にはすまない気持ちが常にありました。
妻を助けてやれない自分の不甲斐なさも感じていました。
それなのに私は「俺は人間のクズや、ダメ男や。」などと妻にぶつけていたのでした。
これは感情的になっていっているのではなく、
本心からそう思っていたので発していた言葉なのですが、
それをいつも受け止めてくれていたのでした。
しかし、振り返ってみると、こんな事もあって、
より夫婦の固い絆が出来たような気もするのですが。
この頃は生きる事、仕事をよくすることで日々追い込まれてもいましたから、
深く考える事も出来ず流されていたように思います。
良いとか悪いとか別にして、父のこのむちゃくちゃさで、
これから立ちはだかる問題に夫婦で立ち向かう形が作られたようにも思いますが、
当時は父の事が理解できませんでした。
まあ、商売に一番大事だと言われていた「忍耐」、
空手でいう押忍の心が刻み込まれていったようには思われます。
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