会長の思い出12
2011-08-01
ギフト専門店をする為にはまず、それらしい店構えと商品を揃えなければなりません。
その当時、ギフト商品と言っても
大進の関係で、日清製粉や日本製粉のパスタや、
ソースの詰め合わせや、そうめんといったものしかありませんでした。
すると父(社長)が商品を集め始めたのです。
次から次へといろんなものを見つけてきました。
私は前からある食品を処分し、新たにギフト商品を陳列する事に追われました。
すると、父は陳列棚を鉄工所にはまり込んでつくり始めたのでした。
父が何故ギフト専門店にする事をスッと賛成したのかわかってきました。
いろんな所へ行って、いろんな商品を見つけてきて
自分が考えた陳列器具をつくって並べるという、
父の性格にぴったりの仕事が生まれたのでした。
ギフトショップの仕事をしている時は、それはもう
水を得た魚のように目を輝かせて生き生きとしていました。
・食品問屋から有名ブランドの食品ギフト
・菓子問屋から菓子ギフト、大阪名物「福の花大黒のおこし」や「をぐらの塩昆布」
・船場の現金問屋でタオル類のギフト、赤ちゃんの服、布団
・松屋町の問屋街でおもちゃや人形
次から次へと新しい商品が入ってくるのですが、すぐには売れませんし
とにかく売るためにチラシを作って夜遅くに家や会社に撒きに行ったり
朝早く近くの駅で撒いたりしました。
するとだんだんお客様が増えてきて、また、学生の時にお客様になってくれていた
阪神間の婦人会や、町内会の人達も買いに来てくれるようになり、
食事や宴会もしてくれるようになりました。
売上も増え、1日12万売れるようになっていきました。
これからしばらく父がいろんな商品を見つけてきて、
私がそれを売るという流れが続くのですが、
驚くようなものを仕入れてきたり、すごい売り方をするようになって行きます。
しかしこの頃、レストランを仕切っていた母が病に倒れてから、
レジをアルバイトに任せていたのですが、
ホールのアルバイトと一緒にレジのお金を誤魔化してたのが発覚したのでした。
そこで、私がレストランのレジをやる事になったのです。
1日60万円くらいの売り上げがあり、非常に忙しかったものですから
昼2時間と夜3時間レジを閉めるまで、レストランの仕事をする事になりました。
父は年中無休24時間労働を標榜にしていました。
商売人はいつも、寝ている時でも商売のことを忘れてはいけないと言うことでした。
それで、私も年中無休で1日17~18時間働いていました。
朝は6時から配達に行ったり、チラシを撒いたり、お客様回りをし、
9時から店のオープンの準備をして、10時にオープン、
11時半から1時半まではレストランのレジをして、
それからショップの仕入れや陳列販売、4時に朝昼晩兼用の食事を取り、
夕方6時から9時までまたレジをやり、それから注文が入ったギフトの包装、
レストランとショップを閉めたら夜の11時過ぎという生活が続く事になります。
1月1日だけは休みなのですが、この日は麻雀が大忙しで手伝わなければならず、
また、父が必ず1月1日にレストランとショップの棚卸しをするので
本当に年中無休になってしまいました。
こういう生活が4年間続く事になるのですが、
その結果、体重が20kg以上減り、過労で倒れるまでの4年間の事を次に書きます。
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